薩摩維新の志士と銅像
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西郷隆盛
薩摩藩城下の下加治屋町の下級士族小姓与の家に生まれた。家が貧しく18歳の時に郡方書役助を務めて家計を助け、また幕末期の農民の窮状にじかに接した。大久保利通、有村俊斎(海江田信義)らと「近思録」を読み、陽明学を学んで、また無参禅師について禅を学んだ。安政元年に藩主の島津斉彬に従って江戸に出て庭方役として側近に仕え、その期間に水戸の藤田東湖や越前の橋本左内らの名士と国事を談ずるようになった。この頃はペリーの来航によって国情は騒然となっていたが、斉彬の命により京都、江戸の間を往復し、将軍継嗣の徳川慶喜擁立への運動に奔走したが、井伊直弼が大老に就任して安政条約の調印や紀州の慶福を将軍継嗣に決定し、反対派弾圧のために安政の大獄を起こすに至った。この時に頼みとする斉彬が病死したため絶望感に襲われ殉死まで考えたが、僧月照を護衛して鹿児島に帰った。斉彬没後の藩当局は月照を保護しようとしなかったので、安政5年11月に月照と錦江湾に身を投じた。月照は絶命したが、西郷は蘇生しその後奄美大島に流された。3年後の文久2年に許されて帰藩し、島津久光の国事周旋に随従したが久光とは折り合わず6月に徳之島へさらに沖永良部島に流された。2年後の元治元年2月赦されて3月上京軍賦役となり、禁門の変、第一次長州征伐にて薩摩藩代表として活躍した。第二次長州征伐の起こる頃には土佐の坂本竜馬の斡旋により長州の木戸孝允らと薩長同盟の盟約を結んだ。慶応3年に武力討伐の方向を取り、12月9日の王政復古の大号令、翌明治元年正月の鳥羽伏見の戦いへと進んでいった。やがて大総督府参謀となって東下し、旧幕府方の勝海舟と談判して江戸城の無血開城を実現した。戊辰戦争が終わると隆盛は帰藩し薩摩藩大参事となって藩政改革にあたった。4年に上京して参議になり廃藩置県の断行にあたって政府の首脳となった。ついで陸軍元帥兼近衛都督・陸軍大将となり、陸軍の中心人物になった。6年に征韓論が起こると自ずから征韓大使であることを主張したが、米欧巡回から帰国した岩倉、大久保らの反対によって敗れ、同志の参議である板垣退助や江藤新平らと下野して鹿児島に帰った。7年に隆盛に従って帰郷した軍人、官吏らのために私学校を創設したが、政府の挑発と私学校生徒の暴発により10年西南戦争を起こし敗退して9月24日城山にて自刃した。51歳。
大久保利通
鹿児島城下高麗町で小姓組の家に生まれて、間もなくして下加治屋町に移った。西郷隆盛らと同じ郷中で幼少の頃から特に親交があった。17歳の時に藩の記録所書役助として出仕する。嘉永3年に父次右門が高崎崩れに連座したことにより職を免ぜられる。同4年に島津斉彬が藩主となると6年に許されて前職に復職した。後に父次右衛門も許されて家に還った。その後西郷らと結び改革の中心となった。斉彬没後に安政6年同志40余人と脱藩を企てたが、藩主忠義自筆の論書により脱藩を取り止めてこれより同志は誠忠組と称せられて、以後は藩主忠義の実父島津久光を擁して挙藩一致の公武合体運動を推進した。文久元年に小納戸に抜擢されて藩政に参与し、ついで小納戸頭取、側役に進んだ。寺田屋事件、生麦事件、薩英戦争、禁門の変から第1次長州征伐へと進む政治過程のなかで公武合体運動の限界を知り、西郷とともに反幕府派形成に進んだ。慶応2年に長州の木戸孝允らと薩長同盟を結んだ。この頃から岩倉具視と往来するようになり、翌3年の王政復古、薩長両藩への討幕の密勅、王政復古の大号令などの政治過程において、岩倉と結んで討幕への動きの指導的な役割を果たした。
明治政府が成立すると慶応3年12月に参与、明治2年7月に参議となり、この前後にかけて東京都、版籍奉還、廃藩置県などの改革を成功させて、4年6月に大蔵卿となり内政確立を目指したが。11月に岩倉全権大使の下に副使として欧米各国を巡遊し、特にドイツの宰相ビスマルクに会って影響を受けた。6年に帰国すると内治優先を唱えて、征韓反対を強く主張して年来の親友である西郷と決別することになった。征韓派参議の辞職後に内務卿を兼ねて政府の中心となり、殖産興業を進めるともに、自由民権運動、士族の反乱、百姓一揆などが続く中で専制的な支配を強めながら、7年の佐賀の乱から10年の西南戦争に至る事件処置に挺身した。11年に石川県士族の島田一郎らによって紀尾井坂にて暗殺された。49歳。初め右大臣正二位を賜られ、のち従一位を追賜、神道碑を賜わった。また17年に嗣の利和は利通の功により侯爵を授けられた。
島津斉彬
曾祖父である重豪と母賢章院の教育によって早くから英明の聞えが高く、またヨーロッパ文明を輸入して洋学者を招き、蘭書を翻訳させて西洋科学の研究と実用化に積極的であった。
弘化3年世子であった時に琉球問題にあたるため藩地に帰る。父斉興の重臣および側室の由羅らがその子の久光を継嗣にしようとしたために、斉彬を推すものたちが大量に処刑された高崎崩れが起こったが、幕府の老中阿部正弘らの後援をうけて嘉永4年に斉彬は43歳にしてようやく襲封した。
斉彬は西郷隆盛らの下級革新派を用いて、まず養女篤姫を将軍家定の夫人とすることによって幕府に対する発言力を強めた。また水戸の徳川斉昭、越前の松平春嶽(慶永)、宇和島の伊達宗城および幕府の老中阿部正弘らと早くから親交があった。ペリーの来航により外交問題が重要問題になり、また将軍継嗣問題が起こると春嶽らと共に斉昭の子である一橋慶喜の擁立運動をした。西郷らに越前の橋本左内と緊密に連絡をとらせ、近衛家を通じて朝廷に強力な運動を行った。しかし井伊直弼が大老に就任して米国と安政条約を結んで、紀州の徳川慶福を将軍世子に決定したので斉彬の運動は功は奏さなかった。斉彬は世子としての期間が長く、藩主としての藩政を行ったのは僅か7年に過ぎなかったが、藩政を改革し藩の富国強兵策を率先して強力に実行した。鹿児島城下の磯邸内に大反射炉を築くとともに熔鉱炉、鑽開台、硝子製造所(薩摩ガラス)、電信機、電気、地雷等からガス燈、写真術をはじめ諸種の設備を設けてこれらを総称して集成館と称したが、盛時には使用職工人が1200人に及ぶ一大軍事工場地帯を造り上げた。この他にも斉彬は外国型帆前船、西洋型軍艦、蒸気船といった洋式造船事業を行い、日章旗を制定し、紡績事業など非常に先駆的な事業を行った。また教育と士風の改革にも力を出してしばしば論文を発したが、安政4年に造士館および演武館に関して下した10か条の訓論は斉彬の教育に対する根本理念を示したものであり、教育者としての斉彬の偉大さを示している。
斉彬は天保山調練場にて鉄砲隊の操練を指揮し、その帰途に病を得て不幸にして急逝した。50歳。その後「順聖公御意志」は久光、忠義などの藩政グループおよび西郷、大久保ら下級改革派武士たち「誠忠士」にも共通の改革スローガンとなった。
小松帯刀
近習番、詰衆、当番頭、側役、演武館掛、造士館掛、大番頭などを経て、文久元年5月に島津久光が国事周旋を決意し藩の要路を更迭した際、側詰で側役勤にあげられてその後大久保利通、伊地知貞馨らといわゆる誠忠組内閣をつくりあげた。翌2年に久光に従い上京して公武の間を周旋し家老にあげられた。以後は京都にとどまることが多くなり、元治元年に起きた禁門の変の処理にあたって、また慶応2年の正月に西郷、大久保、坂本竜馬らと薩長同盟の結成に参画した。長州処分や兵庫開港問題等にも京都にあって奔走した。翌3年10月の将軍徳川慶喜の大政奉還において薩摩藩の代表として慶喜の諮問にあたった。ついで西郷、大久保らと帰藩して久光、忠義父子に王政復古の時が来たることを述べて藩主自ら挙兵上京することを説いた。
明治元年正月に参与兼外国事務掛と総務局顧問を兼ねて、ついで外国判事も兼ねて外交関係を掌り、5月に大阪府在勤を命ぜられて、9月に外国官副知事を兼ねて玄番頭に任ぜられて、2年9月に賞典録1000石を与えられた。明治元年末から翌2年の初めにかけて大久保らと版籍奉還を画策、大久保、吉井友実輔、伊地知貞馨らと帰藩して藩政改革案を樹立した。翌年の36歳にして大阪にて病没した。後の29年に遺功により孫の帯刀に伯爵を賜った。
天璋院篤姫
篤姫は天保6年(1835)12月19日、今和泉家第5代当主忠剛の第4子として現在の鹿児島市に生まれる。
幼少の頃の篤姫は一子(かつこ)と名付けられ、大変利発で活発な子だったと言われている。約19年間を鹿児島で過ごし、指宿の別邸にも度々訪れたと言われている一子は、家のすぐ前に広がる海岸でよく兄(忠冬)と遊んでいた。ある日のこと、海岸で漁師とのすれ違いから危険と判断した一子はその漁師に向かって石を投げた。そのことを知った父(忠剛)は、兄(忠冬)にその勇気が持てなかったことを責め、『一子が男の子だったら』と悔しがっていたというエピソードが小説には語られている。(「天璋院篤姫」宮尾登美子:著)このように一子は幼少の頃から人並み外れた感性と器量の持ち主だったと言える。
そんな一子が18歳のときに転機が訪れる。当時、第13代将軍徳川家定は二人の妻を公家から迎えたが、二人とも長生きせず家定自身も病気がちだったことから、家定の母である本寿院は、広大院(十一代将軍家斉の妻として徳川家に仕えた島津家出身の茂姫)にあやかりたいと、将軍を支えられるしっかりとした夫人を求め、嘉永3年(1850)、島津家に将軍夫人の候補を求めた。島津家には適齢期の娘がおらず、今和泉家の忠剛の子である一子に白羽の矢がたったのである。
嘉永6年(1853)、名を篤姫と改め島津家第28代当主斉彬の実子として、鹿児島を立ち、近衛家の養女を経たのち、安政3年(1856)12月18日に家定と結婚した。しかし、一年半後の安政5年(1858)7月に家定が35歳で亡くなったため、天璋院と号し、その後、前将軍の妻として大奥を仕切った。
幕末の動乱期には実家の島津家は将軍の敵となったが、新政府に徳川本家の存続を働きかけるなど、徳川家のために尽くした。明治16年(1883)11月20日に49歳で亡くなったが、徳川家第16代当主家達(いえさと)を育てあげたのも天璋院といわれ、現在でも徳川家に大切にされている。
五代友厚
13歳の時に世界地図を模写して藩主島津斉彬に献上し、また地球儀を作って世界各国の位置を把握して密かに自奮の念を起こした。19歳の時に初めて郡方書役となる。安政4年選抜されて長崎の幕府海軍伝習所に入りオランダ士官から航海、砲術、測量、数学などを学ぶ。文久2年藩命により幕府貿易使節船千歳丸に便乗して上海に渡航し、ドイツ汽船を購入して長崎に回航して天祐丸と命名しその船長となって船奉行副役となる。同3年の薩英戦争では松木弘安(のちの寺島宗則)とともに船奉行添役として天祐丸などの藩船の避難にあたったが英艦に捕らえられた。横浜にて英艦から脱し、一時武蔵国熊谷に身を隠す。ついで長崎の出て藩当局に開国貿易と海外留学生派遣の必要性を説いた。その意見が容れられて慶応元年に新納久修、松木弘安らと留学生14名(下記若き薩摩の群像)を率いて渡英し、その後ヨーロッパ諸国を視察して、新納とともにベルギー人モンブランと合弁の貿易商社の設立に関して協議し契約を結ぶ。翌2年に帰国、御納戸奉行格御用人席外国掛を命ぜられて藩の通商貿易発展に努めた。明治元年には参与兼外国事務掛、外国事務局判事に命ぜられて大阪在勤となり、備前兵争闘事件、土佐藩士堺浦事件、パークス襲撃事件などの外交事件を処理した。また外国事務局、大阪造幣寮の設置、大阪為替会社、通商会社の設立に尽力したが、鹿児島の武断派の攻撃にあい、2年間会計官権判事として横浜に転勤となったのを機会に下野した。その後大阪にて金銀分析所を開いて各地の鉱山、特に半田銀山などを経営して、11年には大阪商法会議所を創立して会頭となり、大阪株式取引所、大阪商業講習所(大阪商科大学、現大阪市立大学の前身)を設立し、大阪製鋼、関西貿易社、阪堺鉄道、神戸桟橋などの諸会社の設立に関与して関西の財界において活躍し、大阪商工業の近代化に努めて大阪の恩人といわれた。また8年の大阪会議においては大久保利通を助けて政治的にも働いた。51歳で没す。
松方正義
幼少の頃両親を失って赤貧に苦しむ。嘉永3年勘定所出物問合方へ出仕し、ついで大番頭座書役となり、島津久光の側近として生麦事件、寺田屋事件などに関係して、慶応2年郡奉行と軍艦役、翌3年に軍賦役兼勤となり、長崎との間を往復して軍艦や武器の購入に尽力し、動乱に備えて民心の動揺を防いだ。明治元年引き続いて長崎に駐在し、2月に長崎裁判所の参謀、5月には日田県知事となり、間引きの風習を矯正して人口政策にも功績を挙げた。3年中央に戻り民部大丞を拝命し、日田や福島の暴動に対する処分を行った。翌年8月に租税権頭となって国家財政に関与するようになり、以後財政関係の要職を離れることはなかった。7年9月大蔵省大蔵省三等に出仕し、8年5月に地租改正局三等出仕に兼補されて、同年11月には大蔵大補となって、総裁大久保利通の下で改正事業を完成させた。11年には渡欧して産業経済面を視察した。
松方の財政経済上の最大の功績は13年以降の紙幣整理である。新政府成立後は国用が多く、西南戦争もあって紙幣が乱発されて、そのために貨幣価値が下がり物価が上がって財政は破綻寸前に瀕した。14年の政変にて大隈重信に代わって参議兼大蔵卿となり、自ら紙幣整理にあたった。
以来、各内閣に大蔵卿として在職すること10年に及び、24年と29年には総理大臣となり、晩年は元老として薩閥政界の中心的な存在となった。90歳にて没する。
調所広郷
15歳の時に茶道勤となり、のちに江戸詰となって前藩主の島津重豪付の茶道方となる。
重豪および藩主斉興の信頼を受けて累進し、御側御用人、御側役勤等を経て家老になった。文政10年に重豪および斉興の命を受けて藩財政改革の主任に命じられた。主な改革は、(1)大島、喜界島、徳之島3島の砂糖の惣買入(2)藩債500万両の無利子250年賦償還 (3)琉球との密貿易(4)米、菜種子、薬種、琉球欝金、朱粉等の増産と品質向上であった。これらの改革はその手腕と努力によって成功し天保11年頃には諸営繕用途200万両および藩庫金50万両を貯蓄して、この財源によって多くの土木建築事業を行った。
嘉永元年12月江戸桜田藩邸にて急死。73歳。唐物抜荷につき幕府の沙汰を受けた結果での自殺と伝えられるが真相は不明。
若き薩摩の群像
1863年の薩英戦争でヨーロッパ文明の偉大さを知った薩摩藩は前藩主島津斉彬の遺志を継いでイギリスへ新納久修以下の留学生並びに外交使節団を派遣した。当時幕府は日本人の海外渡航を禁じていたので甑島・大島辺出張としてすべて変名を用いた。
一行は、1865年4月17日串木野島浦を出港して道中驚きの眼を見張りながら66日目の6月21日ロンドンに到着、ロンドン大学に留学した。
留学生とともに渡航した新納久修、五代友厚らはイギリスで紡績機械を購入し、1867年5月鹿児島市磯に日本最初の機械紡績工場鹿児島紡績所を建設した。機械の据付けや操業指導のため来日した英人技師たちの宿舎が磯に現存する異人館である。
更に、松木弘安はかって2年間イギリスに滞在した経験を利用して、イギリス外務省当局に働きかけ天皇の下に統一国家日本を作る必要性を力説して、イギリス当局の理解を得た。以来、イギリスの対日方針は一変し、フランスが幕府を支援するのに対して、イギリスは薩長討幕派を支援するようになり、運動の進展に重大な影響を与えた。
また、薩摩藩が、1867年パリ万国博覧会に幕府と対等の立場で出品することになったのも彼等の働きかけの結果であった。
・新納久修 大目付御軍役日勤視察 石垣鋭之助 留学生の団長格紡績機械などの
買い付けに当たる。帰国後のち家老となる。
・松木弘安 御船奉行 出水泉蔵 留学生の学頭(のちの寺島宗則)帰国後博物館
創立者、元老院議員となる。
・五代友厚 御船奉行見習 関研蔵 留学生事業を提案した中心人物。紡績機械の
買い付け、明治維新後の日本経済近代化に指導的役割を果たす。
初代大阪商工会議所会頭となる。
・堀孝之 英語通弁 高木政次 一行の通訳、長崎人
・町田久成 開成所掛大目付学頭 上野良太郎 海軍測量学を学ぶ。
・村橋直衛 小姓組番頭 橋直輔 陸軍学術を学ぶ、のち維新戦函館戦争に出征、
北海道の洋式農業の技術導入に力を尽くす。
・畠山義成 当番頭 杉浦弘蔵 陸軍学術を学ぶ。慶応3年7月渡米ラトガース・
カレッジで法律、政治などの社会学を学ぶ後我国の教育制度の改革
に着手。初代の東京開成学校長(現東京大学)
・名越時成 同 三笠政之介 陸軍学術を学ぶ
・鮫島尚信 開成所句読師 野田仲平 文学を学ぶ。森、磯永と共に慶応3年7月
渡米、明治元年帰国後我が国最初の在外公館の初代弁務使(日本を
代表する外交官)主にフランスに駐在し、特命全権公使を勤める。
・田中盛明 同 朝倉省吾 化学を学ぶ。留学の翌年渡仏、慶応3年帰国。兵庫県
生野鉱山局長。生野鉱山に洋式鉱山技術を取り入れるなど、日本
鉱山業界の発展に尽くした。
・中村博愛 医師 吉野清左衛門 医学を学ぶ留学の翌年渡仏、3年間留学生活
したのち明治元年帰国、藩開成所のフランス83語教授のち公使
(オランダ、ポルトガル、デンマーク)として外交官となる。
・森有礼 開成所諸生 沢井鉄馬 海軍測量学を学ぶ慶応3年渡米、翌年明治
元年帰国、のち我が国最初の駐米大使となる。駐英公使を終えた後
教育制度の確立と近代化に大きな業績を残す。初代文部大臣。
・吉田清成 開成所句読師 永井五百介 海軍測量学を学ぶ慶応3年渡米、ラトガ
ース・カレッジで政治経済学を学ぶ。明治3年帰国、新政府の財政
問題と条約改正に取り組む、のち駐米公使、農商務官を勤める。
・市来和彦 奥小姓開成所諸生 松村淳蔵 海軍測量学を学ぶ。慶応3年渡米、
アナポリス海軍兵学校を卒業、明治6年帰国、海軍兵学校長として
近代日本海軍の人材育成に尽くした。
・高見弥一 開成所諸生 松元誠一 海軍測量学を学ぶ。元土佐藩士で留学の翌年
帰国、のち鹿児島で中等学校教員となり数学を教える。
・東郷愛之進 開成所諸生 岩屋虎之助 海軍機械術を学ぶ慶応4年病没。
・町田実積 開成所諸生 塩田権之丞 海軍機械術を学ぶ。
・町田清次郎 開成所諸生 清水謙次郎。幼少のため勉強の科目を決めなかった。
・磯永彦助 開成所諸生 長沢鼎。幼少のため勉強の科目を決めなかった。ただ
1人、スコットランドの古都アバディーンへ移る。慶応3年渡米、
以来生涯をアメリカで送り、広大なぶどう園の経営とぶどう酒製造
につとめ、ぶどう王といわれた。